
(田岡 功さん 真ん中)
南米パラグアイ。
国民の97%は、原住民グァラニー族と欧州系の混血です。
今から70年前、日本政府は、首都アスンシオンから東南に120キロ離れた原野に
約1万ヘクタールの移住地「ラ・コルメナ」を創設し、日本人の移民が始まりました。
移民がアフリカからの奴隷労働の代わりにされたブラジルなどに比べ、
パラグアイへの移民は恵まれていましたが、それでも環境は苛酷でした。
田岡功さんも、1958年に14歳で移住してから10年は、電気もなかったそうです。
石油ランプで明かりをともし、ドラム缶で風呂を焚く生活。
衣類はすぐに擦り切れるため、砂糖を入れる袋を服に仕立てました。
「原生林には、何千羽ものチョウが舞い、
住んだ川の水で米を洗うと無数の魚がしぶきを上げて集まる。
約束の地は美しく豊かだったが、根を下ろすまでにどれほど汗と涙を流したことか。」
他国に移った仲間も多く、南部ラパスに移住した約500家族のうち、
残ったのは160家族だけでした。
そんな中、パラグアイ政府は、真っ先に学校を建設し、教師を派遣してくれたため、
そこでスペイン語やグァラニー語を習得できました。
1970年代からは、日本の農業指導によって、大豆の大規模農業が始まりました。
やがて大豆は、パラグアイ最大の輸出品に育ち、日系移民はとても感謝されているそうです。
2004年、田岡さんは、パラグアイの特命全権大使(駐日大使)に就任しました。
「大使就任にあたり、日本国籍を離脱した。
しかし無事に職務を終えたら、また日本人として余生を送りたい。
今後は、年老いた一世移民のために、この身を捧げるつもりだ。」
調査員:175

よいお年を!
