僕は、もともと活字中毒なところがある。
先日実家に帰ったときにたまたま見つけた成績証明書の担任の先生のコメントに、
「よく読書した」と一言だけ「書かれていたりするくらい、高校のころは、
昼休みに
図書館に閉じこもって本を読んでたり(暗い・・・)したものだ。
今流行りの「蟹工船」などのマイナーな文学作品などから、詩集や、ブルーバックスとか
推理小説とか歴史小説とか、ジャンル関係なく、乱読ってやつだ。
最近、また通勤時間が長くなって、乱読を再開した。
電車で長時間読んでいるせいで、肩こりがひどい、おとといも、あまりの肩こりの
ひどさで首も回らなくなり、生まれて初めて整体に行ってしまったほどだ。
だけど、やめられない。
そういえば、高校のころも、電車での通学時間を利用して本を読んでいた。
そして、肩こりに悩まされていた。
ということで、今週読んだ本。
「カラシニコフ2」
1に続いて、世界中の紛争・貧困などの問題に迫るレポート。
今回は、アフリカではなく、アジア(主にアフガニスタン)や中南米(コロンビアなど)
の様子が書かれていて、興味深く読むことができた。
麻薬と銃との関係、世界が抱える様々な問題を前に無力な自分を知ることができる。
(知ったからといって、具体的な行動を起こさないのだけど。)
中立の視線で書かれている(一定の価値観を押し付けない)のが、何より好感がもてる。
「私という運命について」
29歳から40歳という一人の女性の一時期を描いた小説。
田町に本社がある電機メーカーで働く女性の、恋愛・失恋・結婚・出産、仕事など、
長々と書いてある。
電機メーカーって、もしかしてNECのこと?と思うと、なにやらそれっぽい感じも
しなくもないけど、なんとなく舞台設定には親近感を覚える。
90年代後半から2005年くらいまでの、同時代を生きてきた身にとっては、当時、流行って
いた音楽など時代背景が詳しくて、懐かしい気分になる。
が、最後まで、この本の主題でもある「運命」というものの考え方(=主人公の女性)に
共感をもてなかった。
(もともとこの作者の本は理屈っぽい(そこが面白いとこでもあるけど)。
主人公の女性も理屈っぽくて、付き合うと怖そう・・・)
今の自分というのは、過去にさまざまな選択をしてきた結果であり、これからの自分と
いうのも、同じように、これから訪れる様々な選択をしていって作られていくもので、
「あのとき、あの選択をしてれば別の結果になってたかも・・・」なんていう意味の
ないことは、誰だって考えると思うけど、まあ、そうやって後悔なんかしつつ、選択に
よって自分の人生は進んでいくわけだ。
僕みたいに漫然と生きてても、すごい偶然だ!なんて思うこともよくあるけど、それを、
「あのときああいう選択をしたのは、生まれる前から神様から決められていたことなんだ、
アーメン」
と大げさに考えるのは、どうも無宗教かつ合理的な考え方をしてしまう僕のもち肌には、
どうも、なじまなかった。
とても分厚い本で、昨日、3日くらいかかって読み終わり、今日は音楽を聞きながらの
通勤。
少し、肩・首の稼動域が広がって、今日は、普通の肩こり状態となっています。
シーマン